雲南陸軍講武堂は昆明市五華区翠湖西路22号、翠湖の西岸にある旧軍校。1909年に開校し、朱徳や葉剣英らを輩出しました。走馬転角楼の旧址は1988年に全国重点文物保護単位となり、いまは歴史博物館として無料公開されています。
地図と立地
雲南陸軍講武堂は、昆明市五華区翠湖西路22号、翠湖の西岸にあります。東は湖と遊歩道、北は文林街と雲南大学、南は旧閲兵場跡です。
周辺地図(模式図)。縮尺や街区の形状は簡略化しています。Grok 3で製作しました。
正門は翠湖西路に面し、東へ数十メートルで翠湖の西岸です。北へ進むと文林街を経て雲南大学正門、さらに円通山へ続きます。湖の東は五華山、南はかつての大操場で、現在は展示施設や図書館方面の街区です。バスは100路、101路、133路が近くに停まり、翠湖一周の路線からも徒歩で入れます。
隣接街路
講武堂は翠湖の西岸、翠湖西路に面しています。正門側の住所は翠湖西路22号で、東へ出ると翠湖公園の西門や西岸の遊歩道へ続きます。湖を挟んで東岸は五華山、北岸は雲南大学と円通山で、講武堂は翠湖を中心とする歴史街区の西側を占めています。
西と南には、かつての閲兵場や教官宿舎の跡が広がり、現在は省の展示施設や図書館方面の街区と接しています。北は翠湖西路から文林街、雲南大学方面へつながり、教育と軍事の施設が湖岸で隣り合います。バスは100路、101路、133路などが近くに停まり、翠湖一周の路線からも徒歩で入れます。
周辺は「大翠湖」と呼ばれる文化圏です。東の黄公東街や昆明老街、北の西南聯大旧址、西の講武堂が、湖を介して一つの見学ルートになっています。旧址の東側が水面、西側が市街という配置は、かつて城西の軍事拠点だった位置を今も示しています。
- 正面の翠湖西路22号
- 東側の翠湖西岸と公園の遊歩道
- 北側の文林街と雲南大学方面
- 南側の旧閲兵場跡と市街
- 翠湖を介した講武堂・大学・老街の連絡
特徴
講武堂の特徴は、清末の新軍養成校でありながら、辛亥革命、護国運動、抗日戦争へとつながる人材の拠点だった点にあります。天津、奉天と並ぶ三大講武堂の一つとされ、後には黄埔軍校、保定陸軍軍官学校と並び称されました。教官の多くは日本の陸軍士官学校の出身で、学科と術科を分けた近代的な軍校でした。
現存する主建築は、1917年に着工し1918年に竣工した走馬転角楼です。土、木、煉瓦、石を用い、東・西・南・北の2階建てが正方形に囲みます。各棟は長さ約120メートル、幅約10メートル、高さ約10メートルで、建築面積は約7800平方メートル、中庭を含む敷地は約1万4800平方メートルです。四隅に拱門があり、2階の回廊は約480メートルとされます。南北は学員宿舎、東は事務、西は教室、南楼中央の突起は閲操楼でした。
旧址全体は約3万6000平方メートルで、主楼のほか大礼堂、兵器庫、盥洗房、照壁が残ります。南部の大操場は失われています。1988年に全国重点文物保護単位、2005年に全国愛国主義教育示範基地となり、2009年に歴史博物館が開設されました。展示面積は約3500平方メートルです。
- 翠湖西岸に残る百年軍校の旧址
- 走馬転角楼の四合院と約480メートルの回廊
- 日本士官学校出身教官による近代軍校
- 辛亥・護国・抗日につながる人材の拠点
- 旧建築を館舎とする歴史博物館
主な展示品
常設展は2つです。東楼と南楼の「百年軍校・将帥揺籃」は約2600平方メートルで、創設、業績、将帥録の3部からなります。写真、兵器、証章、紀念幣、文書、生活用品など約2000点を並べ、重九起義、護国運動、軍校の拡充をたどります。西1階の「中国遠征軍」は約860平方メートルで、出征、対峙、反攻、滇西抗战への雲南の貢献、講武堂师生の参加を扱います。画像800点以上、実物500点以上が紹介されています。
目を引く資料には、唐継堯が用いたとされる護国九獅刀、護国軍将校の軍服、第21期歩兵科の卒業証書、化学実験室の復元、滇越鉄道開通の場景があります。朱徳の展示区では、1910年の丙班入学、特別班砲兵科、第19鎮への配属、重九起義への参加が個人史として示されます。葉剣英の学習歴や、陳賡がここで教えた時期も将帥録に含まれます。
館蔵は約1200件(套)で、うち貴重文物は51件(套)とする整理もあります。展示点数は3300点を超えるとの紹介もあり、写真と複製を含めた数です。西2階は企画展示に使われ、建築模型や閲兵の映像で、失われた操場の規模を補っています。
- 「百年軍校・将帥揺籃」の常設展
- 「中国遠征軍」の常設展
- 護国九獅刀と護国軍の軍服
- 朱徳・葉剣英関連の写真と文書
- 卒業証書、証章、兵器と実験室の復元
歴史
講武堂の構想は1907年、雲貴総督のもとで始まりました。日本陸軍士官学校に学んだ胡景伊らが、雲南陸軍武備学堂と陸軍小学を基礎に、翠湖西の承華圃を用地としました。総督が李経羲に代わったのち、1909年8月に改めて開校し、同年旧暦8月15日に正式開課しました。初代総弁は高尔登、校監は李根源で、翌年に李根源が総弁となりました。
当初は歩、騎、砲、工、輜重の5科を想定しましたが、実際には歩兵と砲兵から始まり、1910年の章程改定で4兵科が揃いました。学員は新軍の甲班、巡防隊の乙班、社会募集の丙班に分かれ、期間は1年半から2年でした。朱徳は1910年に丙班歩兵科へ入り、のち特別班砲兵科に選ばれ、1911年10月30日の重九起義に教官・学員とともに加わりました。
1912年以後は雲南陸軍講武学校と称し、1928年まで続きました。1909年から1935年の停办までに22期、学員は数千人から1万人近くとされます。第15期では帰国華僑や朝鮮、越南の留学生も受け入れました。1919年には李根源が広東韶関に分校を置き、2期を開きました。蔡鍔、唐継堯らとともに護国運動の中核を担い、校訓には「堅韧刻苦」が掲げられました。
1935年から1945年は中央陸軍軍官学校第5分校として黄埔系の分校になり、遠征軍の教育とも関わりました。1950年には人民解放軍軍政大学雲南分校、1953年には第3歩兵学校となり、1958年に移転して軍校としての歴史を閉じました。1983年に雲南省文物保護単位、1988年1月13日に全国重点文物保護単位となりました。1990年に保護管理所、1993年に一般公開、2009年に歴史博物館が置かれ、2017年には全体修復が行われました。承華圃の新軍学堂から、翠湖西岸の記念館へ変わった場所です。










コメント