私とはどこか ― 西には何があるか

SHIN
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ここに紹介するエッセイは、2008年頃に書いた大学生向け読書案内です。◯数字はページ下部の参考文献を参照ください。

私は、小さい頃から、奈良盆地西部に広がる山々(末尾①)を見て、その向こうを知りたかった。

初めての中国

2004年の5月末、当時恋人だった浙江省の女性に会うため、私は初めて中国へ行った。上海浦東国際空港に着いた後、「不便だから乗るな」と言われていた時速410キロのリニア・モーターカーに乗り、地下鉄「龍陽路駅」に到着した。改札を出た時、7名の男性に囲まれた。タクシー乗車の勧誘だった。貧しい中国語を駆使して乗車を断ろうとしている最中に、20歳位の女性が近くを通った。「May I help you?」と言いながら近づいてきたので、お互い母国語ではない英語を使って話を進めた。私が日本人だと伝えたとき、彼女は少し気の重いような顔つきをした。二人は暗中模索の状態になって、5秒ほど沈黙が続いた。私は手探りで会話を探した。「上海駅」に向かうため、再び地下鉄に乗った(②)。

外灘(上海)の1コマー歴史の粉を冷ます冷しげな石壁。 だが、ビルの壁には “INDIA” や “AUSTRALIA” の文字がうっすらと刻まれている。2005年5月24日撮影。

地下鉄で

二人で地下鉄に乗っている間、彼女は、祖母から伝えられた日中戦争期の話や、恋人の話をした。私の方は林京子の小説を紹介した。林は、いくつかの短編で、日中戦争期上海郊外の街路と人間模様を描いた。彼女は三女特有の慎重な態度で戦場の上海を観察した。上海が暗いのは瓦礫となった石やコンクリートが大きく影を落とすからだという、幼少期の林の視線が鋭い(③)。いくつかの駅を過ぎてから彼女は私に尋ねた。「なぜ日本は中国を尊敬しなくなったの?」。なけなしの知識(④・⑤)をペラペラと喋りながら、上海駅に着いた時、私はまとめた。「この150年間、日本は、父であるヨーロッパや米国に憧れ、尊敬もしてきたが、母である中国を忘れ続けている」。彼女は駅員に説明をして改札を入り、構内まで付いてきた。列車が発つまで、彼女は私の恋人について質問した。そうに、独り言のような言葉を漏らした。「おかしな話ね、私は何も知らないのに、一方的に日本を嫌っていた」と。「僕も、中国や日本を知らない。あなたが中国人かどうかも知らない。今から彼女に会いに行くことだけが確かだ」と答えて、私は彼女に手を振った。

永遠の工事中「上海」―この街から私が学ぶべき事柄は、常に変化する力。2005年5月24日撮影。

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地面にかがみこむようなアングルで写したので遠近感が少しおかしい写真になりました。そのおかげでバスはミニカーのように見え、建物は模型のようです。

中国女

2005年の夏、浙江女が結婚するため、私は別れを告げに行った。帰国してから間もなく新しい恋人となった哈爾浜(⑥)出身の在日中国人が、「いずれ私が中国へ連れて行きますから、浙江省の写真は全て捨てなさい」と言った。04・05年に、私は11度も浙江省へ行ったが、今は一枚の写真も残っていない。それから一年ほどが過ぎたある日、哈爾浜女は「あ時間を私は「芬凱路」と名づけている。ブレイクスルをしてくれた二人の中国女にちなんで(⑦)。

最後に

これまで女たちが下していった私への主な評価を振り返ると、無国籍、香港風、ラテン系、現代の孔子、といったところに収まる。私は、小さい頃から、西の山々を見ては、その向こうを知りたかった。今となっては、西に何があるかなど知りたくもない。「その向こう」に行けば「その向こう」があるだけだ。だからといって元に戻れるわけでもない。「私とはどこですか」。それは誰にも答えられない。 「日本とはどこですか」、「西洋とはどこですか」、「愛とはどこですか」、「歴史とはどこですか」…。 どこにもない。呼称があるだけだ(⑧)。

お勧め書籍

①奈良盆地西部に広がる山々にまつわる古代神話を蘇らせた小説に、折口信夫『死者の書』(『ちくま日本文学全集 折口信夫』、筑摩書房、1993年、所収)、盆地を挟む東西の山々と古代宗教との関連を突いた研究に、吉野裕子『日本古代呪術』(大和書房、1994年)がある。

②丸山昇『上海物語―国際都市上海と日中文化人』講談社学術文庫、2004年。19世紀半ば以降の1世紀を対象に、上海で活躍した日中文化人の交路を活写している。

③林京子『老大婆の路地』(『上海・ミッシェルの口紅―林京子中国小説集』講談社文芸文庫、2001年)。他の出版社の文庫版・ハードカバー版にも多く収録されている。

④石井寛治『日本経済史』第2版、東京大学出版会、1991年。本書は、日本経済史のオーソドックスな教科書である。石井は、欧米、中国、日本という3地域を何とかバランス良く捉えようとしている。

⑤岡野玲子『陰陽師』白泉社(2005年の時点で全13巻) 本書は、夢枕獏原作の小説『陰陽師』を元に、岡野が自分で調べたことも反映させたマンガである。絵は耽美的、内容は盛りだくさんで、小説よりも物語の具体性が深い。主人公の安倍晴明が、中国から庞大な学問・技術吸収を行なうことで平安朝を守ろうとした点が如実に分かる。

⑥哈爾浜(ハルビン) 現在、黒竜江省の首都である。19世紀から20世紀前半まで、帝政ロシアや大日本帝国が利権確保のために植民近代化させた目標地域の一つであった。そのため異種混合の熱い歴史をもっているが、他方で、中央大街や松花江等の絶景が束の間の安らきを与えてくれる。キリスト教寺院や仏教寺院が多く、信仰の厚い、控えめで寡黙な街という印象を私はもっている。なお、満鉄経営をはじめとする、大日本帝国によるハルビンの都市計画については、越沢明『哈爾浜の都市計画―1898~1945』総和社、1989年。異種混合地域に紋白蝶を探し求めた旅行記に、島津克弘『哈爾浜のモンシロチョウ』(早稲田出版、2003年)がある。

⑦ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン著作集10 一方通行路』植藤忠・山本雅昭他訳、晶文社、1982年。本書は、ロシアの女優アーシャ・ラティスとの恋愛経験を人生の多様性にまで拡散させた珠玉のエッセイである。歴史を構造へ転換させた見事な叙事詩ともいえる。私が恋愛の記憶を「芬凱路」として街路名にしたヒントが、このベンヤミンのエッセイに潜む。

⑧答えはないが、考える手段だけは残されている。「日本とはどこですか」について、網野善彦『「日本」とは何か』講談社、2000年。「西洋とはどこですか」について、ジャック・デリダ『他の岬―ヨーロッパと民主主義』高橋哲哉・鵜飼哲訳、みすず書房、1993年。「愛とはどこですか」について、マルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』田中倫郎訳、河出文庫、1985年。「歴史とはどこですか」について、蓮實重彦・山内昌之『20世紀との訣別』岩波書店、1999年。以上を勧める。

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この記事を書いた人
shin

15年間ほど経済史や歴史学などの大学教員をしていました。中国好きと旗袍好きと女性好きが高じて「旗袍的新故事」「モードの世紀」なども運営。

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