林京子の上海描写

林京子の上海描写は、彼女の幼少期から少女期(約1931~1945年)の実体験に基づく自伝的・回想的なもので、戦時下の虹口(特に密勒路/現・峨嵋路周辺の弄堂=路地)を中心に、子ども/少女の視点から日常の生活風景・人間模様を細やかに描いた点が特徴です。

長崎原爆文学の代表作家として知られる林京子(1930–2017)にとって、上海は「命の根」「文学の原点」のひとつであり、原爆体験と並ぶ重要なテーマ。生後まもなく父親の仕事で上海に渡り、虹口の中国人雑居の弄堂で暮らしました(一家だけが日本人という環境)。

1945年に帰国後すぐ長崎で被爆した彼女は、戦後しばらくしてから上海体験を小説化していきます。

主な作品と描写の特徴

『ミッシェルの口紅』(1980年、連作短編集)

中心的な上海作品。『老太婆の路地』をはじめとする7編で、昭和13年頃から戦時中の上海生活を「私」(四人姉妹の三女)の視点で回想します。

  • 弄堂の日常:房東の老太婆一家、木工、苦力、娼婦、巡警など多国籍・多民族の隣人たちとの交流。食事、買い物、遊び、上海語、学校生活など。
  • 戦争の影:銃声、テロ、憲兵、橋の通行規制、死体が流れる黄浦江など。ただし子ども目線なので、政治・侵略の大枠より「ありのままの日常」と「即物的な観察」が優先されます。
  • 特に黄浦江の描写が詳細で、季節による色の変化や水死体の光景が繰り返し登場し、生と死が日常に溶け込む上海の風土を示します。
  • 「上海が暗いのは瓦礫となった石やコンクリートが大きく影を落とすからだ」といった鋭い視線(幼少期の観察)が特徴で、「私とはどこか ― 西には何があるか」でも言及した通りです。

『上海』(1983年)

1981年に36年ぶりに上海を再訪した体験を基にした作品。幼少期の上海と新中国の上海の落差、郷愁と違和感、故郷喪失感を描きます。

その他

『黄砂』(1977年、日本人娼婦との出会いを描く)や、後年の関連作品でも上海が繰り返し扱われます。

描写のポイントと評価

子どもの視点と重層的な視線

少女の「私」の目を意識的に用いながら、書く時点の大人の視点や歴史的知識を重ね、単なる郷愁や美化を避けています。侵略者側の日本人少女としての立場を自覚しつつ、弄堂をある種の「女性たちの連帯の場」や一時的なアジール(避難所)として描く面もあります。

「魔都」イメージとの違い

芥川龍之介や横光利一らの「魔都」上海とは異なり、林の上海は生活の場としての租界・虹口の庶民的・日常的な姿が中心。帝国日本の「外地」経験、引揚者の「故郷喪失」、戦争の陰が底流にあります。

戦争表象としての上海

陽の時代に見えた上海生活も、負の影を帯びていると作者自身が述べています。原爆体験と結びつけて「ひとつの環」として語られることが多いです。「私とはどこか」で紹介しているのは、まさにこの『ミッシェルの口紅』所収の「老太婆の路地」などを指しており、日中戦争期の上海郊外の街路と人間模様を、三女特有の慎重な態度で観察した鋭い視線を評価しています。詳細を読むなら、講談社文芸文庫の『上海・ミッシェルの口紅―林京子中国小説集』(2001年)が手に入りやすいです。研究も多く、子どもの視点による即物的描写や故郷観・ヒューマニズムが論じられています。

虹口(Hongkou)

正式な「日本租界」が存在したわけではなく、上海公共租界(旧・英米共同租界)の北区・東区を中心に、日本人が集中居住した地域。

俗に「日本租界」「小東京」「日本人街」と呼ばれました。林京子が幼少期を過ごした密勒路(現・峨嵋路)周辺もこのエリアに含まれます。

成立と発展の経緯

  • 開港前:虹口は呉淞江(蘇州河)北岸の農村・漁村地帯で、「虹口」の名は虹口港(旧・沙洪)に由来します。
  • 1840年代後半~1860年代:1848年、アメリカが蘇州河北岸(現在の虹口区南部)に居留地を設けます。1863年に英租界と合併して「英美公共租界」となり、1899年に「上海国際公共租界」と改称。虹口は公共租界の北区・東区の主要部を占めました。地価が比較的安く、開発の余地が大きかったのが特徴です。
  • 日本人の進出:日清戦争(1894–95年)後、日本人が急増。1890年代後半から虹口に集住し始め、日本領事館や東本願寺を中心に日本人街が形成されます。呉淞路・北四川路を軸に、密勒路(峨嵋路)、漢璧礼路(漢陽路)、閔行路など周辺に日本商店・住宅・学校・病院が集中。1920年代には「日本人の街」として定着し、1930年代には在滬日本人の大半がここに住みました。
  • 「日本租界」と呼ばれるようになった理由:日本は上海に正式な租界を設置できず(交渉が頓挫)、公共租界内で勢力を拡大しました。1916年以降、工部局巡捕房に日捕股が設けられ、虹口の治安を日本人が担当。1932年の第一次上海事変後、さらに影響力を強めます。

戦時下の変容(1930年代~1945年)

  • 1932年・1937年の事変:第一次上海事変(一二八事変)と淞滬会戦(八一三事変)で虹口一帯は激戦地となり、被害を受けました。1937年以降、日本海軍の警備地区となり、事実上の日本支配下に置かれます。公共租界の北区・東区は日本の影響が特に強くなりました。
  • 太平洋戦争期:1941年12月の真珠湾攻撃後、公共租界全体が日本軍に占領されます。虹口は日本人の生活・軍事拠点として機能し続け、1943年頃には在滬日本人が10万人を超える規模になりました。
  • ユダヤ人隔離区:1943年、日本軍は虹口に「無国籍難民限定地区」(上海ゲットー)を設定し、欧州から逃れてきたユダヤ難民約2万人を強制移住させました。### 戦後1945年8月の日本降伏後、租界は中国に返還されます。在滬日本人は一時虹口に集中させられ、1945年末から1946年にかけて段階的に日本へ引き揚げました。林京子もこの時期に上海を離れ、長崎へ戻っています。

特徴と位置づけ

公共租界の中でも「華洋雑居」が進んだ地域で、日本人だけでなく中国人・欧米人・白系ロシア人などが混在していました。

北四川路周辺は比較的中上層の日本人、呉淞路・密勒路周辺は一般庶民層が多く住む傾向がありました。正式な租界ではなく「事実上の日本人勢力圏」だった点が重要です。天津・漢口など他の都市には正式な日租界がありましたが、上海にはありませんでした。林京子の作品に描かれる弄堂(路地)の日常や、戦争の影が忍び寄る風景は、まさにこの虹口日本人集住区の生活実態を背景にしています。

この記事を書いた人
shin

15年間ほど経済史や歴史学などの大学教員をしていました。中国好きと旗袍好きと女性好きが高じて「旗袍的新故事」「モードの世紀」なども運営。

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